2016年1月 高野山を訪ねて その2 [鉄道]
2016年1月24日、高野山山頂駅に到着。
駅前からロープウェイに連絡するバスに15分程乗ると奥の院に着く。オイラはもっと手前の金剛峯寺辺りで降りた。
雪がかなり降ってきて、歩いて観光するのはオイラくらい。
事前調べもしないので、全くどこに何があるやら?
凄く冷える
凛とした空気が、身を引き締める
この辺りはまだ晴れていた
だんだん雲行きが怪しくなります
説明なんか出来ないので
あまりの寒さに、奥の院は行かずに退散。
各大名の墓を見たかったが、次の機会に
あまりにも広い高野山
極楽橋からは特急こうやで難波まで
なんばでは、特急ラピートが発車待ち。相当古い列車だが、デザインは古さを感じさせない。
京都に帰り、翌日帰埼した。高野山の記憶は寒かっただけ。思い立って行く場所じゃないな!計画的に?無理だわ。
2018-08-01 19:39
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コメント(1)
鉄分歩給
by kurosuke 様
初めてコメント記入します。
最西端駅訪問 Vol.10
2012/03/03 23:55
2012年2月27日 16時 グラバー園の隣の大浦天主堂にやって来た。
に関してです。
本文の中で、
大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)とは、長崎県長崎市にある
カトリックの教会堂で、 「1865年に建立された」 日本最古の
現存するキリスト教建築物。
正式名は 「日本二十六聖殉教者堂。」 その名のとおり
日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である
長崎市西坂に向けて建てられている。
信徒発見とは、1865年3月17日に大浦天主堂にてキリシタンが
発見されたことで、その次第は以下の通りである。
日本は当時まだ禁教令下にあったが、フランス人のために
「1864年(元冶元年)大浦天主堂を完成させた。」 翌年
1865年2月17日、ジラール教区長により天主堂は
<「日本26聖人殉教者天主堂」と命名、> 献堂された。
それから一ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれて
いた天主堂に、珍しい西洋風の建物を一目見ようと、見物人が
大勢来ていたが、その客にまぎれて、浦上の隠れキリシタンたちが
やって来きた。
とあります。
上記の中で、
年号
・「1865年に建立された」
・「1864年(元冶元年)大浦天主堂を完成させた。」
名称
・正式名は 「日本二十六聖殉教者堂。」
・<「日本26聖人殉教者天主堂」と命名、>
とありますが、それぞれ一致しておりません。
また、別な個所に、
・そして、1597年2月5日に長崎の西坂ではりつけの刑に処せられた。
その日、西坂の処刑場のまわりには大勢のキリシタンが励ましに
みえていたといわれ、 「ポルトガル船は祝砲を撃っている。 」
とありますが、「祝砲」の言葉がそこでは前後の状況の中ではそぐわず
意味不明なのですが、ポルトガルがキリスト教を伝えたので「祝砲」ではなく
幕府に対する「抗議の空砲」という表現がしっくりくると思うのですが、
この「祝砲」という言葉はkurosukeさんが独自に考えた表現なのでしょうか、
それとも他の何かの文献にそのように表現されていたのでしょうか、
お知らせ願います。
草々
森山 芳弘
(hiro23232311@yahoo.co.jp)
by 森山 芳弘 (2018-09-29 06:53)